私は一人の統合失調症患者としての立場から怒りを込めて抗議する~漫画『ルックバック』をめぐる議論について

私は”統合失調症患者”という立場をとることを好みません。統合失調症は私の人生を構成する要素の一つに過ぎません。重要な要素であっても、すべてではありません。私は数十万人いる統合失調症患者の一人に過ぎません。一般的な病気とは違い、統合失調症には多様な症状があり、自分が語れるのは「自分が経験した統合失調症」のみです。ゆえに”統合失調症患者”ではなく、”私”として発言すべきだと考えます。しかし、今回はあえて”一人の統合失調症患者”として発言します。

 

漫画『ルックバック』について、統合失調症患者・医療関係者の一部から「統合失調症患者への偏見を助長するのではないか」との意見が提起されました。

 

そんなにまずいのかと思って読んでみました。しかし、私は差別的な描写を一つも確認できませんでした。見落としがあったのかもしれないと思い、何度か読み返しましたが、差別的とは感じませんでした。何が問題なのかさっぱり理解できません。一部の人々の反応が、描写の強度と全く釣り合ってないように思われました。

 

「ああ、そういうことか」

 

私は事情を理解し、一部の統合失調症患者・医療関係者に対して激烈な怒りを覚えました。

 

精神障害者が何人か集まると、”ナイーブな人”が必ず一人はいます。ちょっとしたことで傷つき、悲しみ、怒ります。傷ついたから配慮しろと言います。悲しいから慰めろと言います。怒ったから謝れと言います。彼らは自分の要求が絶対的に正しく、無条件で受け入れられるべきだと固く信じています。拒否されると、この世の終わりのように嘆き悲しむか、火山のように怒りを噴き出します。

 

他の精神障害者から見ると、ナイーブな人の言動は不可解です。しかし、泣かれたり怒鳴られたりすると厄介なので、ナイーブな人の要求が通りがちです。

 

困ったことに、医療関係者の中にはナイーブな人に過度に寄り添う者がいます。彼らはナイーブな人の要求が絶対的に正しく、無条件で受け入れられるべきだと固く信じています。拒否されると、無理解だと決めつけるか、悪人だと決めつけます。

 

このような輩がむやみに騒いでいる。私はそう判断しました。目につかない場所で騒ぐのなら構いません。その場にいる者が我慢すれば、それで済みます。しかし、オープンな場所において、「統合失調症患者なら当然そう感じる」と言わんばかりの顔で、おかしなことを言われてはたまりません。統合失調症患者がみんなそう思っていると思われては困ります。

 

私は”統合失調症患者”という立場をとることを好みませんが、社会からそういう目で見られることは理解しています。差別的な言葉を直接叩きつけられたこともありました。あまり関わりたくなさそうな雰囲気を感じることもありました。かわいそうな人だから配慮しようみたいな扱いを受けたこともありました。初対面で能力も人柄もわからない状態ですら、統合失調症であると伝えると、扱いが明白に変わります。こういう経験をすれば、自分が差別される存在であると、嫌でも意識します。

 

私にとって、差別は日常的な脅威であり、警戒すべきものです。差別に直面しそうな状況は極力避けます。病気の存在を事前に伝えなければ利用できない施設・サービスは、利用しません。病気のことを知っている人間と鉢合わせしそうな場所には近寄りません。個人の事情に興味がない人としか付き合いません。役所で福祉関係の手続きをする時は、人が少ない時間を選びます。しんどいですが、嫌な目線を意識するよりはずっとましです。

 

自分以外の者が受けた差別にショックを受けることもあります。現実かフィクションかは問いません。フィクションであっても、作者が差別意識に基づいて書いているように感じると、嫌な気分になります。十年以上前、ある漫画を読んだ時は、信じられないほどの見下しと無理解に仰天し、その作者の作品は二度と読みたくないと思いました。

 

自分の基準を絶対視するつもりはありません。統合失調症患者であっても、何を差別的であると感じるかは、人によって違います。私が許せるものを人が許せないこともあるでしょう。人が許せないものを私が許せることもあるでしょう。

 

それでもなお、ルックバックからはひとかけらの差別意識も感じなかったと、一人の統合失調症患者として断言します。日頃から差別を意識し、差別を恐れ、差別を警戒する生活を20年近く続けた一人の人間の目を通しても、どこが差別的なのか、まったく理解できません。

 

ルックバックの差別性を指摘する記事をいくつか読みましたが、不可解さが一層募っただけでした。感性の違いでは片付けられませんでした。絶望的な断絶を感じました。「世の中にはこういう考えもあるのだな」程度の納得すら得られませんでした。ただただ不可解です。

 

 

 

統合失調症患者の一人である私にとって、ルックバックの殺人犯は何とも感じませんが、一部統合失調症患者・医療関係者の発言は差し迫った現実的脅威です。

 

ルックバックを読んで、統合失調症患者全般への恐怖を感じる健常者は少ないでしょう。あの殺人犯はとことん空虚なものとして描かれています。読者が何らかの感情を抱くことは困難です。空虚すぎて、「こんな奴が現実にいたら」と想像する余地が乏しく、現実にいる何者かと接続することは不可能に近いです。

 

私は藤本タツキ氏という作家をよく知りません。既読はルックバックを含めて短編二編。代表作のチェンソーマンは未読です。ただ、ルックバックの殺人犯については、ひじょうに慎重かつ配慮された描写がなされており、読者のヘイトを避ける工夫がなされていると感じました。これを無配慮だと言う人がいますが、私には信じられません。

 

精神障害を想起させる人物を殺人犯として登場させたことについては、「現実にもそういう犯罪者はいる。漫画にいても不自然ではない」程度に考えています。それ自体が差別的とは感じません。

 

差別の基準は人それぞれです。私は感情の向けどころに比重を置いています。犯罪者個人に関心が向けられるよう書いているのなら、差別的とは感じません。犯罪者個人の問題として片付くからです。犯罪者個人より犯罪者が精神障害であるという事実に関心が向けられるよう書いているのなら、差別的であると判断します。犯罪者個人ではなく精神障害の問題になるからです。

 

一方、一部統合失調症患者・医療関係者の発言を見て、統合失調症患者全般への恐怖を感じる健常者は多いでしょう。彼らの言葉は非常に生々しいものです。聞く者に何らかの感情を想起させずにはいられません。何にでも傷つき無限の配慮を求める”ナイーブな人”は、健常者の中にも数多くいます。多くの人が家庭・職場・学校などで”ナイーブな人”と出会い、嫌な思いをしています。一部統合失調症患者・医療関係者の主張は、立場が近い者ですら理解に苦しむもので、しかも強烈な感情がこもっています。この種の理不尽は、多くの人が経験しているため、「こんな奴が近くに居たら」と想像する余地が多く、現実に居る何者かと接続することは容易です。

 

ルックバックの殺人犯を見た人が統合失調症患者を恐れる可能性より、一部統合失調症患者・医療関係者を見た人が統合失調症患者を恐れる可能性の方がはるかに高いといえます。

 

何にでも傷ついて無限の配慮を求める。そんな人間など属性に関わらず相手にしたくありません。

 

統合失調症患者がみんなそうだと思われるのは、統合失調症患者の一人である私にとってひじょうに恐ろしいことです。

 

ナイーブでない”統合失調症患者”の一人として、ナイーブな”統合失調症患者”の皆さんに申し上げます。

 

統合失調症患者”を馬鹿にしないでください。

自分と他人の区別をつけてください。

傷ついたのはあなたです。

無限の配慮を必要とするのはあなたです。

”あなた”の「傷ついた」という言葉が、誰かを傷つける可能性に思いを馳せてください。

”あなた”の「配慮してほしい」という言葉が、誰かへの配慮を欠いた行為である可能性に思いを馳せてください。

”あなた”の行為に怒りと恐怖を感じる”統合失調症患者”が、少なくとも一人は存在することを知ってください。

 

 

統合失調症患者”の一人として、一部医療関係者に申し上げます。

 

ナイーブな人に寄り添うことをやめさせる権利は、私にはありません。

ナイーブな人の肩を持って他の患者に我慢させることをやめさせる権利は、私にはありません。

すべての患者の中にナイーブさを見出そうとすることをやめさせる権利は、私にはありません。

ありもしないナイーブさを見出して頼まれもしないのに”寄り添う”ことをやめさせる権利は、私にはありません。

自分が”問題意識”があって立派だと誇るために”統合失調症患者”を利用することをやめさせる権利は、私にはありません。

統合失調症患者”への偏見をふりまくことをやめさせる権利は、私にはありません。

統合失調症患者”を見下すことをやめさせる権利は、私にはありません。

”私”は”あなた”の行為に怒りと恐怖を感じる”統合失調症患者”が、少なくとも一人は存在することを知ってほしいと願っていますが、それが不可能であることも理解しています。

私はあなたがたには何一つ求めません。

自分と無縁であることのみを期待します。

 

統合失調症患者”の一人として、”統合失調症患者”でないすべての人に申し上げます。

 

七十万人とも百数十万人とも言われる統合失調症患者”の大多数は静かに暮らしています。健常者の大多数と同じように。

 

一般的に想像される統合失調症の症状は、妄想、幻覚、思考障害などの陽性症状でしょう。これらは服薬と治療によって抑制できます。それでも抑制できない場合は入院します。危ない”統合失調症患者”は基本的に社会に出てこないものと考えてください。

 

社会にいてなおかつ陽性症状が出ている場合は、本人に病識がなく通院しようとしない、通院しているが服薬を怠っている、医者が入院しろというのに本人か家族が拒否している、などの理由が考えられます。いずれにしても稀少例です。

 

妄想や思考障害を見ると、多くの人は統合失調症”を想起するようです。しかし、これらは”統合失調症”以外の精神疾患にも見られます。脳疾患にもこのような症状があります。何の疾患がなくても、歪んだ価値観、頭の悪さ、肥大した自尊心などによって生じます。健常者が「あいつは統合失調症ではないか」と疑っても、ほとんどは的外れです。統合失調症であって妄想や思考障害が目立つなら、入院させられます。

 

健常者が事前知識なしに”統合失調症患者”と出会った場合、ダウナーな印象を受けることが多いのではないでしょうか。統合失調症陰性症状には、感情表現の希薄化、思考力の低下、意欲の低下、自閉などがあります。認知機能障害も生じ、記憶力や注意力や集中力や判断力が低下します。これらの症状は、鬱病発達障害にもみられ、誤認されることも多々あります。陰性症状認知機能障害は、陽性症状と違って薬が効きにくく、ダウナーな状態が長く続きます。

 

統合失調症患者”の犯罪率が健常者より低いのは事実です。犯罪するほどの気力がないのです。

 

そういうわけで、健常者が社会の中で統合失調症患者”と付き合う場合、作業ミス、手際の悪さ、積極性の欠如、遅刻、早退、欠勤などが最も現実的な問題となります。

 

統合失調症患者”が社会でどのように暮らすかは、陰性症状と認知機能障害の悪影響をどこまで抑制できるかにかかっています。フルタイムで、健常者と同じ仕事をこなして同じ賃金を稼ぐ人もいます。アルバイトやパートで、健常者と混じって働く人もいます。障害者雇用枠で、健常者と異なる勤務形態で働く人もいます。作業所で、就業に向けて努力する人もいます。自宅と病院を往復するだけの人もいます。

 

健常者が考えるほど暴力的でも支離滅裂でもない。

”ナイーブな人”が言うほど繊細でもない。

ダウナーな状態が慢性化している。

肉体、思考、感情が鈍っている。

体力や気力が乏しく、健常者のような生活をこなすには意識的な努力が必要。

統合失調症患者”の大多数はこういう人々です。

 

理解を求めるつもりはありません。

共感を求めるつもりはありません。

同情を求めるつもりはありません。

配慮を求めるつもりはありません。

 

”私は”ただ、”統合失調症患者”の一人として意見を述べました。

ですから、皆さんには、ただ、”統合失調症患者”の一人がこう言っていた、と知っていただけることのみを期待します。